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「中村 勇司先輩を偲ぶ会」 の開催

平成24年7月21日開催

既にご承知のことと存じますが、中村 勇司先輩(前神戸市漕艇連盟会長)におかれましては、去る平成24年4月7日に、逝去されました。
 皆様には突然のお知らせであったかと存じますが、ご遺族のご意志により、近親者のみの御葬儀等が執り行われました。

 この度、中村勇司先輩とボート活動でご縁のあった多くの方々に参集頂き、「偲ぶ会」を下記のとおり開催致しました。

 中村勇司先輩のご縁のあった方の中で神戸市漕艇連盟において、住所が把握できた方々には、6月中旬に案内状をお送りしました。
しかし、故人のご交流関係が広く、誠に失礼ながら、神戸市漕艇連盟のホームページによりご案内させていただき、全員にはお送りできておりませんでした。

                                                            
                                                    敬具



故 中村勇司 先輩

 あなたは、我々に何一つ強制することはなく、無償の献身を身をもって静かにおだやかに実践されて来られました。           
これすなわち、人生をかけて培われたボートの精神の完成を私共に示されたものでしょう。今後私共は、到らぬながら、この精神を受け継ぎ頑張って参りたいと考えております。                   

どうぞお見守り下さい。

■■惜別の辞■■
 「偲ぶ会」には、開催を前後して、雷が鳴り響き、ゲリラ豪雨の中、故人の交流の広さから、総勢70名を超える関係者が集まりました。その会は、参会者全員によるオールの型紙による献花に始まりました。中村先輩が、天国からいつまでも我々のボート活動を見守って頂くことを ご臨席の皆様と一緒にお祈りしたしました。

 続いて、市漕連帽田会長の開式の辞と黙祷で、厳かに始まりました。故人は、関西にあって、日本ボート協会、各都道府県の団体と親交厚く、関西を代表して、その橋渡しのお世話をされて来ました。その輪は、日本国にとどまらず、独・仏・伊・台にまで広く、ボート界での国際的博識に於いては、右に出る人はいません。

ご来賓のお言葉として、甲南大学漕艇部初代コーチ 富田一成氏 同初代主将 高田 裕士氏より故人と甲南大学漕艇部の歴史を積み重ねてきた足取りについて、ユーモラスに語って頂きました。
ひとりでボートは早く走らず、お互いがお互いを補いながら、切磋琢磨してきた過程をお聞きするうちに、故人が伝えたかったことを伺い知ることが出来ました。

塩田副会長による献杯を行い、故人を偲び始終和やかに歓談しました。
故人との話題は、話しても話しても話し切れません。
そんな話をしているところに、お酒好きな故人がスッと現れそうな雰囲気が漂っていました。
左の黒板に掛けているのは、中村勇司コレクションです。

山本(達)理事による司会進行
中村 勇司先輩 ボート歴
 
 日本ボート協会
   1991〜1999年・・・・・理事
   1999〜2010年・・・・・参与
   2010〜2012年・・・・・顧問
   1964年東京オリンピック総務・審判員
   理事退任まで日本で開催された国際大会全てに役員として参加。
   国体他、国内大会いずれも本部役員・審判員として参加。

 関西ボート連盟
   1970〜1985年・・・・・理事・常任理事
   1985〜1999年・・・・・副理事長
   1999〜2012年・・・・・監事
 
 兵庫県ボート協会
   1970〜1985年・・・・・理事・常任理事
   1985〜1996年・・・・・理事長
   1996〜2000年・・・・・副会長
   2000〜2012年・・・・・顧問

 神戸市漕艇連盟
   2001〜2011年・・・・・会長
   2011〜2012年・・・・・名誉会長



「カッカッカッ」と大声の笑いと共に聞かせてもらった中村勇司先輩の名調子は、もう聞けなくなりました。

東京オリンピックコースのお情けの防風林、夜を徹して設置したドングロスの波消し作戦で、IOCの一発OKを勝ち取った話や自衛隊による照明弾打ち上げ作戦

広島での定時高校コーチングに始まる国体での活躍。
2005年長良川FISA世界選手権での海外チーム持ち込み偽札(?)回収劇。
台湾宜蘭県でのボート朋友作りや台湾好朋友の話。

中国人の商人は土管のように押し合い圧し合い商売をするが、日本人は針先での刺し合い、危なっかしいと”異文化”を語ってもらった。

海外に仕事以外でたくさんの友達関係を作ぅて、生涯付き合えと教えられた


私達もその教えを実践していきます。


故人を偲ぶ参会者全員


甲南大学漕艇部と共に
All Together
−東京オリンピック大会(1964年) 金メダルのアメリカエイトクルー ストローク手による回想録−
より抜粋
訳KM

・・・・・(327頁〜)
日本人はオリンピック参加者たちに便宜を図って言うことを聞いてくれ、すべてにおいてパーフェクトでありたいと願っていた。決勝レースの遅延は組織委員会にとっては当惑ものだったが、それは彼らの力がおよぶ範囲外の自然、風のなせる業でいかんともし難かった。

長年にわたり日本ボート協会の重要人物である中村ユシ(原文のママ)は、私たちオアズマンが待機している間に舞台裏で起こっていたことを私に説明してくれた。彼の話では、主催者としては翌日のスケジュールに影響をおよぼす遅延についてはそれほど心配しておらず、それよりも社交的な行事のことを心配していたと言う。
日本ボート協会では、椿山荘で決勝レース後のフェアウェルパーティーを準備していたのだ。そこは高価なガーデンバーティーの会場として有名なところだ。キャンセル、あるいは日程変更は考えられなかった。なにしろ、協会の予算は麻布の波よけカーテンを設置するのに大きく食われてしまっていた。

ところで、日が暮れるという問題があった。この点に関する中村ユシの説明は私の記録とぴったり符合する。私が研究を進めているときに彼からメールで説明があったのだが、そこで彼は「私は正確なところを記憶していませんが、エイト決勝の二つか、三つ前のレースのときにあたりが暗くなり始めました。多くの人が決勝線のところに集まって、審判を補助しようと自動車のヘッドライトでコースを照らそうとしていました。

問題は、当時の写真フィルムは現在ほど明るいものではなく、自動車のヘッドライトでは決勝線あたりの百メートルの幅を照らすには不十分なものでした。日本の組織委員会にとってオリンピック決勝戦の結果をフィルムに収められないのは致命的なことでした。

突然、私にアイデアがひらめきました。自衛隊が移動式発電機ほかの器材でオリンピック大会をしっかり支援してくれていました。戸田にも彼らがいて、スタートとフィニッシュラインの間、そしてコース途中に通信機材をもって展開していました。私のアイデアは、彼らならおそらく私たちが必要とする照明用の特別な道具を持っているのではないかということでした。幸い、私は二千五十メートル地点で彼らの本部車両の隣にいました。私は上級幹部に歩み寄り、『私たちを助けてくれる装備はお持ちではないですか?』と尋ねました。

彼は、「照明弾があります。これなら昼間のようにコースを照らし出せます」と答えてくれました。

それを使わせてもらえますか?

彼はすぐに、もちろん、と答えました。

私はFISA本部を訪ね、照明弾が使えることを告げたところ、彼らは喜びました。私たちは慎重に艇のスピードを計算し、打ち上げのタイミングを計り、それを最後の三つのレースで試しました。

エイト決勝では、各艇が千五百メートルを通過したところで一発目を上げ、四十五秒後に二発目を上げることにしました。照明弾は完璧に働き、もう一発残ったのでメダル授与式を照らし出すのに使用しました。おかげでたいへん劇的なシーンになりました」


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