中村勇司様

 

貴男が御逝去されてから、早や百日が過ぎました。

私共、神戸市漕艇連盟、甲南艇友会、甲南大学漕艇部は、貴男に物心共に大変お世話になり、今日ここに偲ぶ会を催すことになりました。

貴男がお亡くなりになってから、ボート関係者はもとより、思わぬ人からも貴男に非常に好意的にお亡くなりなった事への残念さを語る人々にお会いするにつけ、貴男の我々に残された大きな実績を思わざるを得ません。

 

貴男は、関西にあって、日本ボート協会、日本 オアズマンクラブ、そして各都道府県の団体と親交厚く、関西を代表して、その橋渡しのお世話をされて来ました。

その輪は、日本国にとどまらず、独・仏・伊に広く求められ、その博識に於いては、右に出る人はおりません。

特に、台湾のボート界に於ける指導ぶりも1997年宜蘭県で行われた国際有名大学選手権大会に大いに貢献されました。

私共、甲南漕艇部員を連れての観戦をしましたが、テレビ取材に中国語での応答されている姿に、我々も、何か誇り高い気持ちにさせて頂いたことを思い出します。

 

もっと溯れば、1964年の東京オリンピックに役員として関西から選ばれ、戸田で行われたボート競技の大会役員として、大きな功績を残されました。

それは、コース上の問題が生じ、その解決に当たられ、無事レースが再開されたこと。

ところがその時間の遅れがエイト決勝に及び、照明のないコースに夜が迫るという絶体絶命のピンチに、自衛隊に照明弾を打ち上げさせると言う離れ技を提言し、実行されたのが、貴男とお聞き致します。

私共、甲南ボート部員一行は、このオリンピックエイトの決勝のあの一場面を目の当たりに見ていたので、今でもはっきりと脳裏に刻み込まれております。

そのシーンは、その後上映された市川昆監督の東京オリンピックの映像の中でも、ひと際印象深い場面になっております。

 

中村勇司さんの功績については、私共甲南大学漕艇部の産みの親であり、同部が関西の雄として躍進する富田一成コーチ起用であります。

その時の主将高田先輩、佐々木、保村両先輩率いる甲南大漕艇部は、このお二人の献身的な情熱指導の下、常勝京大を降し、初の関選の栄冠を手にすることが出来ました。

その後、その漕法を受け継ぎ、朝日レガッタ優勝、二回の関選優勝、全日本選手権四位と続き、一時休部の状態になりましたが、再出発には多大のご尽力を頂きました。

 

今、甲南大学漕艇部が取組んでいる戦略は、貴男が唱える「一艇あって一人なし」の解釈の前に、「個の確立」を重んじ、その上で団体競技を目指すその方針の下「小艇」、すなわち「個の確立」から始め、「エイト」を目指す道程を踏んで、日々研鑽致しております。

 

 今現在、私共神戸市漕艇連盟での理事会では、市民レガッタ開催7月29日に向けて、準備に多忙の日々です。

そのいつもの中心に中村勇司さんが居たことが、今は大きな穴となり、寂しさをかくすことは出来ません。それでも皆それぞれの立場で役割を果たしております。

 

 貴男は、我々に何一つ強制することはなく、無償の献身を身をもって静かにおだやかに実践されて来られました。

これすなわち、人生をかけて培われたボートの精神の完成を私共に示されたものでありましょう。

今後私共は、到らぬながら、この精神を受け継ぎ頑張って参りたいと考えております。

どうぞお見守り下さい。

 

 あちらの世界では、沢山の貴男の友人達がお待ちしていることでしょう。

さぞ辛口の叱咤激励が飛んでくることでしょう。

「カッカッカッ」の大声の笑いと共に。

 

さようなら

 

合掌

 

平成二十四年七月二十一日

神戸市漕艇連盟 会長

甲南艇友会 会長

甲南大学漕艇部 監督

 

帽田 八郎

 

 

追記

さる七月八日、魚崎艇庫にて、中村勇司様にちなみ、ダブルスカル二艇、中勇一号、二号の進水式を関係者一同三十名にてとり行いました。

同時にアトム号も進水致しました。

艇庫は、新艇も含め、充実したものとなりました。